碧空733 退屈に狼狽して、何度も手を洗う
733 退屈に狼狽して、何度も手を洗う
余りの退屈に狼狽して(転移発作的に)何度も手を洗う。1912年 5月23日の「日記」(F.Kafka )の記述であるが、それでは、場所をこの世のものにする影としての悠久に面して、すなわち媒質や意味の揮発に面して、手を洗うというようなことがあるものだろうか。日本猿が波打ち際に出て芋を洗うというのは単に美味追求の食欲からであるが、日本猿が浜に漠として落とす種の影が不気味であるのは、海の波ではなく悠久が打ち寄せているからである。
「二つの小さなお下げを垂らし、帽子をかぶらず、赤地に白い斑点のあるゆったりとした服を着て、脛と足をむきだしにした子供が、一方の手に小さな籠を、もう一方の手には小箱をもって、ためらいながら国立劇場のそばの車道を渡って行った。」
渡って行ったのは1912年 5月23日のことなのかどうかは分からないが、こうした観察は、透視不能、救出を待つ症状、透視の、三相の変態を漠として扱い、迫真と真空の間に凍結保存しようとする。次元は振動しており、どの次元を扱っているか分からないままに観察は丹念に分節を重ねるが、波の揺れ動きのように「変わり易い力」を純粋保存しようとして、何度も手を洗うかに見える。


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