Wednesday, March 30, 2016

碧空740 無も同然の光景の変態

740 無も同然の光景の変態  「真夜中ごろ、青年はぴったり身に合った、くすんだ灰色の、軽く雪が降りかかっている、チェックのオーバーを着て、小さなオペレッタ・ホールへの階段を降りて行った。彼は切符売場で金を払った。切符売場のなかでうとうとしていた若い女はびっくりして、大きな黒い目でまじまじと彼を見た。彼はそれから、階段を三つ下りたところにあるホールを見渡すために、しばらく立ち止まっていた。」  「ほとんど毎晩、ぼくは国鉄の駅へ行く。今日は雨が降っていたので、三十分もホールをあちこち歩き回った。たえず砂糖菓子を自動販売機から出して食べていた男の子は、ポケットへ手を突っこみ、なかからたくさん小銭を取り出し、穴のなかへぞんざいに投げこみ、食べながらラベルを読み、二、三個下に落ちると、それを汚いフロアから拾い上げてまっすぐ口のなかへ入れる。」(「日記」1913年12月F.Kafka)  虚構を、漁るように、今を(無も同然の光景を)蒐集する。それは、場面の変態(「変わり易い力」)を扱う。1ありふれた(しかし虚構の気配を消した)光景、2この世ならぬ絶景、3極端に私的で救出を待つ光景。  透視不能の、暴かれないままに迫真しかないこの世として無を透視する(無がこの世の霊的形式になる)瞬間に真空に出る、その「絶景」の、その断面である光景3を陰謀じみた気配が蔽いかけて意味深くなるのは、その光景3の(生贄の情景の)出自が、遍在する窃視(自分の背中が見える「猛り狂う無」)だからである。  「I am the resurrection 」は生贄であることの(the Son of Speciesであることの)、腹話術のかかった告白であるが、つまり、その要請は歴史的、本質的ではなく法則的でもなく、「私」というものの霊的形式である「復活」を「私」として透視する「絶景」が、光景3に振れるのである。透視は、無も同然のこの「私」が「復活」するのではなく「私」というものとなって「復活」が顕れるのであるが、その透視が変態して、虚構の気配を消し切れずに両極端に走って救出を待つのである。Jesus Christは「絶景」であるが、光景3に振れて誰に入れ替わったのか分からずにぞっとするのである。

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