碧空746 何か潔白ではない漠とした責め
746 何か潔白ではない漠とした責め
エドモン・ダンテス(モンテ・クリスト伯)がシャトー・ディフの暗い岩牢と岩牢を結ぶ抜け穴を通して遭遇するファリア司祭は、自らを限界づけて「父になれない男、自由になれない男」とする。それは、カフカの二重生活すなわち「独身者」と「自殺者」の注釈でもある。未来がすでに体験されてしまっている「自殺者」が自由になれないのは、暗牢に閉じ込められているような程度としての自由の欠如ということではなく、「私」というものが復活に見張られているように、種の夢想である自由、孤独、思考が媒体であることに見張られている、その幽囚性からである。「私」というものが現実になるためにその霊的形式である「復活」が打ち消されて場所となって潜み返るように、自由、孤独、思考がこの世のものになるために打ち消されて自由、孤独、思考が見張られることになる霊的形式は「媒体であること」である。
「するとなんだかぼくを待ちうけている者たちがいて」というように、この「静かな幸福の気配と約束」に抜け穴を通して導かれ、ファリア司祭の頭を通して、ダンテスに濡れ衣を着せて陥れた者たちの振る舞いのあれもこれもそれと思い当たる光景になってよみがえることになる。この、司祭の頭を通すことは、隠密墨で記された財宝の在処を示す羊皮紙を炙り出すようなもので、ファリア司祭の頭脳はダンテスの喉元に上り詰めて来ていた漠とした疼きや疚しさから復讐の輪郭をあぶり出す変換装置なのである。
疚しさ、というのは、それと知らぬ間に何か謀に巻き込まれ図らずも片棒を担がされてしまったのだからといってその迂闊さが免責になるものでもなく、他の誰かの嫉みをかう僥倖というものも意図しないだけに却って何か暗黙の黒い契約があったかのようで潔白ではないからである。何か潔白ではない漠とした責めの、その一つの解としての(罰としての)こぼれ幸いなのであり、身に覚えのない責めが二重に上り詰めて来ているのである。
この、何か潔白ではない漠とした責めの起原は、解としての種の夢と問としての種の夢が解離し切らないで救出を待つ症状、解離したこの世のものの透視不能と解離しないこの世ならぬものの透視の間に宙吊りになった変態である。モンテ・クリスト伯(大デュマ)は、道端で金貨を拾うような漠とした「郷愁」に導かれる。


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