碧空747 道端で金貨を拾うような「郷愁」
747 道端で金貨を拾うような「郷愁」
それは、何か潔白ではない漠とした責めであり、世界の終わりがこの世に侵入するようなものであり、何か贖おうとして疼く。それは、問としての種の夢を解としての種の夢で埋め合わせようとすること、しかもそれは、この世の幸で贖うのかこの世の幸を贖うのか区別がつかない。「モンテ・クリスト伯」(大デュマ)の展開は、この贖いの疼きが復讐発作に変装する。
モンテ・クリスト伯の苦しくも楽しげな変装は根拠のないものではない。世界の終わりがこの世に侵入することは、「私」が誰に入れ替わったのか分からない究極の隣人が顕れる、苦しくも楽しげな脱皮だからである。モンテ・クリスト伯の前身の幽囚性も由緒あるもので、隣人性とは自由になれない幽霊性なのである。モンテ・クリスト伯は自由自在に変装するというよりは、「私」というものはこの幽霊性(幽囚性)をこの世では劇化しないではいられないのであり、それが「モンテ・クリスト伯」の展開でもあり、その責めが、道端で金貨を拾うような何か潔白ではない漠とした「郷愁」なのである。


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