Wednesday, April 13, 2016

碧空749 NOSTALGHIA、NOSTALGHIAの訂正

749 NOSTALGHIA、NOSTALGHIAの訂正  モンテ・クリスト伯とは、何処から来て何処へ行くのか、といった問そのもの、女が孕むのも、同じ問、同じ問が腹を食い破って出て来る。それは、何か潔白ではない漠とした責め、「NOSTALGHIA」(A.Tarkovsky )であり、外の土砂降りの雨が内にも降り込めるように、しかし雨と感じられたのは実は音もなく夢のように侵入して来るシェパードで、女の腹の中に寝そべる。  Doraculaが鏡を前にして部屋が映ってしまうということは、鏡に映らないということなのではなく、Doraculaは部屋に変装しているのである。ゴルチャコフが鏡の前に立つと廃墟が映るならば、その輪郭喪失は、面壁九年、ドメニコが家族を閉じ込めて世界の終わりを待った面壁七年ではなく、この七年の監禁から解放されて、ぶち破られた扉から飛び出した子どもがひょこひょこ石の階段を伝い走り村の境を限る断崖へ出て、その絶景が世界の終わりなのかと問い糾す、その、世界の終わりのこの世への侵入が、女の腹の中に寝そべるのである。  家族を七年閉じ込めて世界の終わりを待ったドメニコの監禁症状は、救出を待つ症状ではない。この、世界の終わりを待つ体験からは自由になれるが、世界の終わりがこの世に侵入することからは自由になれない。幽囚性とは、おそろしく私的で、生き埋めに抵抗する。それは、世界の終わりがこの世に侵入するような、おそろしく私的なのに自由になれない窃視の、隠れなさであるが、ドメニコの監禁症状はこの隠れなさからの逃走、零落なのである。  媒体であることは復活との区別がおかされている。それは自由からの自由、自由が解け、自由から脱け出すことであり、「私」というものの霊的形式である復活は「私」が解けること、自由、孤独、思考が代表する「私」からの自由である。媒体であることも復活も個の保持ではない。「私」というものを脱皮して奇怪にも「私」に出てしまうのである。聖カテリーナの声帯を借りて聖カテリーナは口走る、「お前が存在するのではない、私が代わりに存在するのだ」と。  同じようにして、ドメニコの声帯をかりてイタリア語となってゴルチャコフが話すかのようであるが、実はドメニコを通してゴルチャコフは、思い違いしていたNOSTALGHIAを訂正するのである。女の腹の中に寝そべるNOSTALGHIAは、霧のたちこめた早暁の屋外に出てシェパードをはべらせ姉や母や祖母と立ち尽くしてついに今にも世界が終わろうとする気配に息をひそめ、どんなふうに世界は終わるのか固唾を呑んだ記憶だとばかり思っていたが、そうなのではなく、世界の終わりを待つのではなく、世界の終わりがこの世に侵入している絶景に出たことなのである。

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