碧空753 正体を現わす偶然の隣人
753 正体を現わす偶然の隣人
摂理は偶然の霊的形式である。この摂理が偶然の反対命題に発作的に転移するのは、打ち消されて、この世の偶然が摂理を映し出す化が、偶然が占める場所(となって潜んだ摂理)が偶然を映し出す擬態、あるいは意識の出現に変態して、狼狽したからである。この狼狽と転移発作のために、摂理と偶然が本当に何よりも懸け離れたものなのか見極め難いのである。
モンテ・クリスト伯にとって海上へ出ることは、絶景に出る(誰でもなくなる)こと、錬金術や進化論のような下降と救済である。大視症は身は縮んでも「私」が肥大する輪郭喪失を反映する(発作的に模写する)のであるが、その極で擬似摂理は解けて絶景に出る。海上に聳えるシャトー・ディフの岩牢は、J.J.Rousseauの夢想した湖中の島の牢獄の変奏である。それは、擬似摂理の座でもあるが、モンテ・クリスト伯の輪郭喪失でもある。
エドモン・ダンテスの失踪と輪郭喪失がモンテ・クリスト伯として顕れる復讐であるように、カール・ロスマン(「アメリカ」F.Kafka )の失踪と輪郭喪失も復讐なのだろうか。どのように変装を解いて正体を現わそうとしているのだろうか。
「アメリカ」それは、絶景に出ることである。モンテ・クリスト伯が擬似摂理と摂理の間に変態して正体を二重に現わすように、偶然としてのカール・ロスマンも「オクラホマ大劇場」の監視と計画と制御の下に入って、そのユーモアに冒される。ここでは、偶然の隣人こそが正体を現わそうとしているのであるが、正体を現わす瞬間の感応がエコーするものである限り、この超絶瞬間は光り出すのである。
ところで、「独身者」カール・ロスマンの霊的形式が「自殺者」であることは、モンテ・クリスト伯のことでもある。「独身者」の占める場所となって身を潜めた「自殺者」は発作的に「独身者」の反対命題に転移する。この転移発作は、「独身者」が「自殺者」を映し出す透視から、独身者が占める場所(となって潜んだ「自殺者」)が「独身者」を映し出す透視不能へ反転、この擬態、あるいは意識の出現に狼狽したからである。


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