碧空754 空想の霊的形式「不眠と頭痛と憂慮」
754 空想の霊的形式「不眠と頭痛と憂慮」
「私」の霊的形式は復活にして、自由、孤独の霊的形式は媒体性、隣人性であるが、思考の霊的形式は何だろうか。思考は詰まるところ平均化と提喩、法則的、歴史的にすることである。ということは、思考から何よりも懸け離れたものは化ということになる。
この世のものに零落することは、この世のもの(具体)が霊的形式を代表する透視の次元が、個や部分が一般や全体を代表する透視不能の次元に転移するのである。カフカの空想も、透視の次元から透視不能の次元に変態する限りで、体験から自由になって保存のきく孤独な虚構に零落するのであるが、カフカが掘り出さないではいられない空想の鉱脈はまだ掘り起こしていない場所にいつも移動してしまうために、個々の断片は何か罪に罹った生首のように取り残される。しかし、まるで「自由意志」のような(従ってまるで自由が解けた)生首はそうではない。壁に向って寝入ろうとしているカフカの頭から出て来る白馬はまるで「自由意志」で、呆気にとられてしまう。凡そ馬は、カフカの身体を組成する「不眠と頭痛と憂慮」あるいは「心臓と睡眠と消化」何か三幅対にして列挙したくなるような、何か潔白ではない漠とした責めが躍り出るのである。それは、自由や思考からは何よりも懸け離れているのにまるで「自由意志」みたいに歩み出て、超然と乗り越え、どこかへ消えてしまうのでギョッとするのである。フォン・グルーゼンホーフ氏の厩の五頭の馬は更に精彩に富んでいる。というのも、なんといってもファーモス、グラースアッフェ、トゥルネメント、ロジーナ、ブラバントの五頭揃い踏みは「自由意志」じみて、馬たちを妨害するものは何もないのである。
その、白馬が初めてA市の大通りに姿を現わしたのは、ある秋の日の午後で、ある運送店から極自然に出て来て、馭者がいないのだから実はおかしな闖入なのであるがこれといって怪しまれることもなく、それをいいことに市街を着々と進むが、交通法に誰よりも順応しているふうだ。というより、この闖入はどこか融通無碍で誰にも阻止されないでまるで「自由意志」みたいだが、「不眠と頭痛と憂慮」あるいは「心臓と睡眠と消化」を問(霊的形式)として導かれた偶然の隣人なのである。
もっともこの闖入は馬の姿をしているとは限らない。夜明け前に壁に向って眠っている学生の部屋にずかずか入り込んで来るクライペ、ヴルフェンスハウゼン出身の男、学生と同じ出だと指摘する腕の長い、恐らくは学生と同じく大きくて長く、少し曲がりくねって先が尖っている鼻、暗い顔色、目は深く凹んでいる。しかもその腕、鼻、目、顔色は、「自由意志」みたいにそうなので思わず笑ってしまうのである。(「日記」1914年、3月、4月、5月、F.Kafka)


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