Tuesday, May 10, 2016

碧空766 沈める碇

766 沈める碇  「屋根裏部屋で未だ本の上に屈み込んでいた学生は、庭の方で嘆き悲しむ調子の大声がするのを耳にした。彼はぱっと立ち上り、耳を澄ました。だが静かだった、いつまでも静かだった。「幻聴だろう」と学生は呟いて、また読み始めた。するとしばらくたって本の中の活字が、まさに「幻聴ではない」という意味に並んだのだ。「幻聴だ」と繰返して、彼は人差し指を行に沿って動かして、騒然としてきた行たちを元へ戻した。」この庭については次のように説明されている。「三軒の家が三方から頭を寄せ合って、小さな中庭を作っていた。そしてその庭に建っている納屋のなかには仕事部屋が二つあって、一隅には、小さな箱がうずたかく積んであった。」嵐の日ともなればいちばん低い家の屋根越しにおびただしい雨が庭のなかに激しく送り込まれる。本の中の活字が推定の誤りを正すために並びを変えて騒然とするのを宥めようとしたのは、嵐の夜のことである。  そもそも言葉は音としてであれ文字としてであれ、その言葉が縁生して浮かび上がるために打ち消されたものが地や反対命題や疚しさとなって厖大に潜伏している。アナグラムは潜伏しているものの氾濫の一形式であるが、そもそも嘆き悲しむような大声は、嵐の夜に屋根裏部屋で本の上に屈み込む希望の症状の地口か反対命題のようなものではないのか。というのも、希望の症状は、「遥かな海底に沈んでいる難破船の錨のように」救出を待つ症状だからである。それは、7月3日の記述であり、同4日の記述は次の如くである。「目覚めてみると、縦も横も歩幅一歩しか余裕のない牢屋のような囲いのなかに閉じこめられていた。」「お前は何者なのだ?」という問いかけに「悲惨だ!」と答え、「二枚の木の小片を顳に押しつけてぎりぎり回した。」それは、「両手で空気を打つ」というような転移発作である。同6日に現れた大きな医学書の頁をぱらぱらめくるのは見かけはちらっとなかを覗く医者だが、実は「自由意志」のようにぱらぱら頁がめくれて、救いは「ブレゲンツからくる」と活字が整列し直す。しかも「フォアアールベルクのブレゲンツだ」と付け加えさえする。ブレゲンツはオーストリア西端、ボーデン湖に面した街、遠いが、この遠さはカインがヤーウェに呼びかけられるような、あの魅惑、nowhere to hide である。(「日記」1916年、F.Kafka)

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