碧空770 雄の霊的形式、最後の眺望、最終状態
770 雄の霊的形式、最後の眺望、最終状態
絶望の症状の霊的形式は、場所(この世)や反対命題や疚しさとなって潜伏した希望の症状である。問やリビドーや目的としての希望の症状(the possible)の、その解(発見や成就、a possible)の一つが手段としての絶望の症状なのである。絶望の症状と希望の症状は見極め難く変身し、手段が目的を映し出す限りであふれ出すこの世は、罪責のようにも郷愁のようにも感じられる。
絶望の症状と希望の症状は、何か致命的に似ているが何か致命的に違い、躁鬱が解離、変態するように、雌雄も解離する。雄の霊的形式は「雌」にして、「雌」の解としての雄が彷徨い出る最後の眺望は雄の最終状態でもある。つまり、雄が器官を延長して彷徨い出るのではなく、「雌」の器官の延長が分岐(解離)して雄が彷徨い出すのであり、この雄が漠として予期しているものも、郷愁のような最後の眺望も、もう一つの片割れと対になるように懸け離れようとしていたはずの器官の延長の、その最終状態も「雌」なのである。
この「雌」の暗躍は発芽する奇形嚢腫であるために、雄は「雌」には到達しない。どんなに近くても致命的に遠く、「隣村」(F.Kafka )のずうっと手前で(すなわち、距離が失効して)終わってしまう。雄が「隣村」に到達する経験は伝聞と解離しない、経験の頓挫なのである。何かが起こっているとすれば、それは、「雌」(が雌雄に1解離することや2解離しないこと、3解離し切らないことの間)の変態である。変温性の動物が決闘の勝敗や地面の温度などの気まぐれな運の分岐で雄と雌に役割を分担することがあるように、「独身者」と「自殺者」の変態も何かの弾みであるが、それは雌雄の分岐に対応しているのではなく、解離の変態3と2に対応していて「雌」はヤーウェに変装している。それは、「正しい言葉で真の名を呼べばすぐにやって来る」のであるが、「隣村」に変装しており、3足が竦むような瞬間しか生まれないために中間突破できないか、2経験と伝聞が解離しない断崖にただ息を呑むか、そのように押し黙っているのである。


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