Sunday, May 22, 2016

碧空772 文学振り、その起原、その野心

772 文学振り、その起原、その野心  文学は変態を扱うのであるから、化けて出るものを扱う。幽霊や隠喩や反語であり、狐狸の気配や(「雀の宿」のように)救出を待つ症状の救世主やユーモアであるが、このユーモアには擬態の気配を消した生真面目な日常性も含まれる。日常の水準の理解より上位の審級から(しかし、擬態の気配が消えない、剥き出しになる、擬態が解ける、覚醒する、といったことが果たして優越であるかどうかは見極め難いが)この世のものやこの世や、その擬態振りを扱おうとすることに於いて、哲学も科学も神学も同じ文学の態度をとっている。文学は諸学を導く郷愁(予期)にして最終状態、それは変態の探究を、擬態の気配が消えた透視不能の水準でも、透視不能と(擬態が解けた)透視との間でも駆り立てる。哲学も科学も神学も文学振りなのである。  文学は「私」や神の「真の名」も扱う。日常性とは、世界の終わりが来ていることを知らないでいられることである。奇妙なことに、「私」というものが一回限りであることにも、一回限りではないことにも無頓着でいられる。種の関心の器官としての「私」というもの(この奇妙な本能)が、それと知らず使いこなされている。それは、呼び出されなければ成らないが呼び出されたがっているというように呼び出され、朝の光と大きな顔と名を呼ぶ声も、何処から出て来るのだろうと思うような半人半獣のスーパー・ヴォイスも、この、もの狂おしいような呼び出しの、即興的な変装である。文学の起原は、降霊術に罹ることである。しかも、声だけでなく「石南花の葉」(「雲の小徑」久生十蘭)や「つばきの花の蘂」(「カノン」手塚治虫)さえ降ろそうとする神通が、その野心なのである。

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