Saturday, May 28, 2016

碧空775 常陸坊海尊の「真の名」

775 常陸坊海尊の「真の名」  「私」というものや、その二重の視座(正目と斜目)の解離の技術すなわち平均化は、日常性のための本能的な技術革新である。その視座が既視感であることを忘れ果てるのである。この視座が月光のように冨嶽のようにフリートラントの城(「フリートラントとライヘンベルクへの旅」F.Kafka )のように思いがけなく何処にでも覗いて(何処からでも見えて)質料化するのは、しかし質料化の頓挫である。というのも、それはまぼろしじみていて、月光や冨岳やフリートラントの城の「真の名」を問いかけていて、半具体だからである。「石南花の葉」や「つばきの花の蘂」(碧空772 )のように透視不能と透視の間に振動しているのである。  この半具体の振動(救出を待つ症状)は、経験と伝聞が解離しない(二重の通過)、所在が二重になる(距離の失効)といった神通を呼び起こす。「石南花の葉」や「つばきの花の蘂」や「黒法師の兜」あるいは月光(碧空774 )が目くばせするように出現するのは、「私」が誰かであること、何かであることの困難を問いかけているようなものであるが、それは、半具体の、その怪物性の解の例なのである。

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