碧空776 「不完全な瞬間」に息を潜める
776 「不完全な瞬間」に息を潜める
漠とした予期が具体となって解けるのは、夢がそうであるように、「百千の関係が一挙に明らかになる」(「日記」1921年、F.Kafka )、情報を問の形式に圧縮した霊的抽象が具体となって(化けて出て)解けるのである。この具体がその場所と解離する瞬間の明るさと、解離しないで放出する光との差異は、この世のものが占めるこの世の明るさと、擬態が解ける忽光(エネルギーの放出)の差、意識の開明と、気が遠くなる「瞬間の崩壊」の差である。
民族の目的は目的地へ導く道の霊的形式であり、民族の辿る道を現実にするために潜伏した根拠にして予期である、と同時に、民族の辿る道の反対命題である。民族の最終状態は、律法に遵守って民族の営む日常から決定的に遠く懸け離れて疎々しいが決定的に身近に迫る「長目」だからである。カナンは、民族の目的であることと、民族が営む日々であることの間に振動する「不完全な瞬間」に息を潜める。カナンそのものが「雀の宿」のように救出を待つ症状なのである。
モーセのように民族を導く存在も、本能的で、能所が解離し切らないまるで「自由意志」のようなロボット状態の「私」にして、民族を(すなわち、他の誰かを要請して)導くというのに始祖にして最後の一羽であるような「オドラデク」の如き半具体、寿命が極端に短い救世主や素粒子のように発見されたがっていて、別の次元から律法をスーパー・ヴォイスでこの世に持ち越した降霊術の、そのテロや既視感に罹った生贄(怪物)である。それは、平均化や中間突破の技術を欠き、「不完全な瞬間」に息を潜め、どんなに手を振っても足が「不完全な瞬間」を踏み越えられない。到達の経験が伝聞でしかなく、カナンは発見されたがっているが、何処かこの世のものであるためには半意識に過ぎる。催眠術にかかったようなカナンの眺望は不完全な意味であるために気が遠くなるような「長目」であるが、それは、不完全な意味であること、種の関心が不完全であること、そうした「不完全な瞬間」が発見されたがっているように漠として意味深げで、限りなく迫るが到達しない接近の気配に光り出すのである。


0 Comments:
Post a Comment
<< Home