碧空786 狸囃子と禅味
786 狸囃子と禅味
「城」(F.Kafka )が曖昧なのも、不完全な場所を占める不完全な出来事だからである。「城」への果てしない旅は、呼び出されるKと呼び出す「城」とが一致するまでは時間がかかるということである。Kが現実である間は「城」には到達しない。「城」はKの霊的形式(最終状態)で、何よりも似ているが何よりも懸け離れているからである。Kと「城」が一致する瞬間は、眩羞と被曝、こうした隠れなさを「風流旅情記」(久生十蘭)は、「ぼんやり」と形容して吹き替えている。
「ある場所にやってきても、現実と地図が一致するまでは時間がかかる」空腹の旅としての「城」と、捕食する「城」として現れた物語からの生還との間の振動、変態が、「ぼんやり」すなわち狐狸の気配である。しかしそれは、精彩に富んでいる。空腹の旅にかかる「風流」は「おめでたい心象風景」と注釈されているが、なんの、実はこの精彩(活溌々地、洒々落々)のことであるから、「おめでたい」からは皮肉や冷笑、嘲笑の類を除去して滑稽味や頌を純粋にしなければならない。この精彩に富んだメタモルフォーゼは、先ずこんなふうに襲う。報道班員三河万蔵はものの弾みで東印度アンボン島から接岸航路でアール諸島トランガン角に赴くことになる。ニューギニアのミミカまで行く徴用漁船に便乗するため第二十五根拠地隊司令部のある建物の大理石の大広間に入って行くと、鉢巻をした赤銅色の禿頭の煤ぼけた老爺には歯のない洞穴のような口の十六羅漢がひそみ、金壺眼の角刈りの四十がらみの口髭には広瀬中佐がいる、寒山拾得と河童を継ぎ足したのや、矢口ノ渡しの頓兵衛、そのうちの別の一人の赤ッ面には朝日奈がちらつくし、更に別の一人の吊り目には悪霊民部卿が祟っている、どんちゃん騒ぎというのではないが騒々しい野人たちを鎮める参謀の手の所作は海彦懸かりだ。みなさん元は漁船の船頭さんで百屯、へたすると隅田川のランチぐらいの機船で渺茫たる三千海里を航海することもあるというのであるが、その夕刻、蘭印時代のヴィクトリア門の波止場へリュックを背負って羅漢の舎翁の船舶第二十六号をたずねていくと、果たして、「昨日の空襲で、半沈みになった浮桟橋の近くに、対岸の飛行場へ通う定期のランチと並んで、それよりも一廻りも小さな、十八屯ばかりのお粗末な漁船が、舳先に7.7㍉ の機銃をつけて」まるで「自由意志」のように「ぼんやり」浮いている。
仙台の石ノ巻から屋島の壇ノ浦へ下る九郎判官義経に吹き替えられた、とでもいうような航海はどこまでも水また水で空との区別もおかされてただもう平坦で大地震のような激変とは懸け離れているのに、しかし初期化は同じで「ぼんやり」してしまう。現実と海図が一致するまでに時間がかかる物語から、うっかり生還しそうになるのである。「迫真」と「真空」の間に振動、変態する大航海の果てに、三河画伯と第二十六号は離別を惜しむ段になって、「茶屋の姐さん、一本歯の足駄、ドッコイショ、どこでころぶやら、コリャ、チョコチョイト、わからない。あらドッコイサノサ」という羅漢の舎翁、八字髭(本名有田徳右衛門)、合わせるカムロー(河童の寒山拾得、十七才)のアホな歌声が水脈を曳いて海風のなかに狸囃子じみている。つまり、禅味なのである。


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