Wednesday, June 22, 2016

碧空792 「東京風の出来事」

792 「東京風の出来事」  変奏する物語の群体は、危機に際して四方に散っていたアメーバーが群がり集まって一つの生体のようになって移動し始めているかのようだ。物語は何か症状のようなもので、その解消は症状が他の物語に転移して、変装することである。変装が劇しいのは餓鬼振りである。様々な領分で、飢餓や渇きが猖獗を極めているのである。  「十字街」では1934年コンコルド広場にうわさのように漂う半「フランス」が潜んだように、「魔都」は、1934年大晦日そして元旦、日比谷公園の噴水の、その青銅の鶴が唄う、といった「東京風の出来事」(狐狸に化かされたように東京音頭が巷に大流行するというような不完全な出来事)を胎蔵することになる。(久生十蘭)  危機に際しては物語るものであり、「魔都」そのものが青銅の鶴の歌であるが、安南の諜報員の証言では世にも清らかな噴水の鶴の歌の正体は安南国歌、新聞記者古市加十の推察では失踪した安南の宗龍王が噴水の下に隠れ潜んでいるのであり、そのことが暗示するのは、魑魅すだまがこの世の姿を得た東京の、その自律的な蜃気楼が、集結したアメーバーのように不随意に移動し始めていて、「迫真」と「真空」の間に、時間と寂漠の間に振動、変態して、救出を待つ症状だということである。つまり、告白も証言も推理も恐喝も「テレツクテンテン、トンチキツクツク」なのである。  「魔都」では、同じ時間が別の場所にもかかる、その、場所の場所の浮上(「ちょうどその頃」)を寂漠ではなく、諧謔と呼んでいる。月光のように誰のためでもなく照らす一隅の意味がいたずらじみてもいれば、影の暗躍が滑稽じみてもいるのである。

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