碧空794 半Dedalus(鷓鴣の監視)
794 半Dedalus(鷓鴣の監視)
カナンやオドラデクやスフィンクスが(不完全に)発見されるための手段としてモーセ、カフカ、オイディプスが間に合わせられているように、「東京風の出来事」の発見のための手段として「魔都」の作者を自称する者が呼び出されている。
ミステリの野心(すなわち、犯人が誰でもなくなること)に駆り立てられては、犯人を捜す者と犯人を兼ね、更には裁く者と死体とを兼ね、更にはまた話す者と聞く者を兼ね、作者と読者も分業を取り消し、経験と伝聞も解離しなくなる。「魔都」の作者を自称する者が、登場する人物を如意に制御できないとこぼすのは、寂寞道人(犬塚志乃の許婚浜路の異母兄、世を忍ぶ犬山道節の仮の姿)がまるで常陸坊海尊のように物語から生還して馬琴と名乗るものが吹き替えられているために受身、自発、尊敬、可能が収斂して、登場して来る人物の暗躍を如意に導きあぐむようなものである。
S.Kingと自称して物語る、その所作は受身、自発、尊敬、可能が収斂していて、物語ることは「掘り出す」気配である。それは、「an actuality of the possible as possible」の一つの解としての「A Portrait of the Artist as an Young Man(A Portrait of Daedalus as a Dedalus)」(J.Joyce )にも当て嵌る。もっともDaedalus(Daidalos)そのものを霊的なままに掘り出せるものではなく、この世のStephen Dedalus としてDaidalosを透視するか(epiphany)、DaidalosとS.Dedalus が解離して透視不能になるか(零落)、解離し切らないで半Dedalus (救出を待つ症状)になるか、の間に振動、変態するのである。
半Dedalus は、まだ生まれ切っていなく、思いがけなくもまるで目的のない犯罪(まるで解としての責め)、これから零落するというように(不完全に)発見され、吹き替えられた失語状態であり、捕食の金縛り状態をまるで「自由意志」でのように蔽い隠してしまっている断食芸のようなもの、喉元まで上り詰めて来る責めがもどかしくも問のままに飛び出てしまったというような度忘れ状態である。しかも、a Dedalus を打ち消したDaidalosが打ち消される限りでanother Dedalus は出現するというような神話的断面(「LITTLE NURSE」)に、半Dedalus は鷓鴣に変装して潜む。この、物語から生還する半Dedalus (鷓鴣の監視)が「肖像」を制御できないのは、Daidalosの出現が三相の間に振動、変態するだけでなく、a Dedalus の現勢はDaidalosの諸解の一つとして思いがけない即興だからである。


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