碧空795 彷徨う胃袋の気配
795 彷徨う胃袋の気配
物語は、ヤゴの捕食の薄気味悪く迫る気配、その強靭な下唇が(その、下唇に折り畳まれた霊的抽象・記憶をもどして)一気に関節が伸びて手腕が飛び出るようなヤゴの捕食の、その捕食振りが代表する胃袋の気配、まるで「自由意志」の気配、吹き替えられている気配、物語からの生還の気配である。それは、彷徨う胃袋の延長であり、種の夢(関心)であり、手段(器官の延長)は例えば素粒子に例えば20光年離れた別の惑星にも及ぶが、関心を狭める視野狭窄なのか拡張なのかは見極め難い。
ミステリの野心(犯人が誰でもなくなること)の起原は、仏法に肉薄しようとして天竺を尋ねても「真空」に出てしまうようなことであるが、手段が場所を占めて発見されるものである限りでは、起原として間に合わせられる手段の探究は神話に解消してしまう。素粒子の探究は、物語であることを打ち消す極で打ち消されたものが鷓鴣のように生還して、神話的断面で振動、変態を扱うのである。
うわさのように漂う半具体が不完全な発見であるのは、具体の発見の基盤である場所(目的)が、その霊的責め(問)のままに(不完全に)発見されて、救出を待つ症状であるということである。具体が現実であるために(何かであるために)目的は潜むが、半具体では「何かであること」と「何かであるために」との区別が曖昧なのである。この「ために」は「疚しさ」とも区別がつまびらかではない。
「東京風の出来事」のスクープに飢える古市加十は、スクープを追うことが高じて、その極みで、犯人を捜す王と犯人を兼ねることの変奏として、安南王を探す暗殺者と安南王とを兼ねるように二重に取り違えられ(入れ替わり)、余計な双子の片割れとして死体も兼ねる。こうした「魔都」(久生十蘭)から人知れず生還して鷓鴣のように監視しているのは、この、生贄である(個と種が、手段と目的が解離し切らない)古市加十である。物語の動機(標題)は「東京風の出来事」であるが、この、救出を待つ症状が(不完全に)発見されるために古市加十が間に合わされ、胃袋の気配が体節にゾロゾロ顕れた附属肢の、その反復がしかも触角、口唇、エラ、ヒレ、翅、耳骨に見かけも機能も変異、展開して、その底なしの餓鬼振りが素粒子の探究のようなものに変装するのである。


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