Thursday, June 30, 2016

碧空797 発見、不完全な発見、発見(の頓挫)

797 発見、不完全な発見、発見(の頓挫)  「無意識的なもの」も(不完全に)発見されるためにフロイトが呼び出されている半具体で、ヨハネが「メシア」の到来を前触れるようにフロイトがこの半具体の出現を先触れる。どんな発見も振る舞いも暗示で解消するような症状であって、この半具体の影響を蒙っていないとは証明できないが、そのために不断の一歩が踏み出され続ける。半具体とは半具体を孵し続ける卵(「LITTLE NURSE」)なのである。「メシア」のように「無意識的なもの」も救出を待つ症状であるが希望の症状でもあるのは、不完全な場所としての「無意識的なもの」と不完全な出来事としての「無意識的なもの」が解離し切らないで、それだけCGで場面に挿入された蝶々のように閃くからである。  そのようにして、それだけ場面に挿入されたCGの蝶々が閃くように「二頭立ての橇の列が雁のようにつながって、音もなく駆け足で細い道をすべりながら、隙間もなく雪の片に覆われてたわんでいる樅の木の生えた、高くなり低くなる林を通って行った。闇の中で赤い火を光らせながら、誰かが香りのいい巻煙草をくゆらせた。勢子のオシップはひざまで雪につかって、橇から橇へ駆け移り、引綱を調節する合間に、いま深い雪の中を歩き、ヤマナラシの皮をかじっている大鹿や、暖かい息を大きく空気穴から吐き出しながら奥深い穴で寝ている熊の話をする」(「復活」)。こうしたTolstoi の、丹念に篩にかける走査の衝動は、Thomas Aquinasの神の証明の強迫症に酷似して不完全な場所に迷い込んでいるうちに、胸が潰れるような過激な変態、迫真のはずが真空に出てしまう発見(の頓挫)に襲われる。この、肺や心臓が潰れるような発見(の頓挫)は、何か致命的に、発見とは違う。「何か」が頓挫し、発見の根底が潰れ、誰の呼吸なのか分からなくなるのである。  しかし、フロイトが間に合わされている「無意識的なもの」を扱う精神分析は、迫真や発見に拘泥する余り、深淵に発見されるというよりは不完全な発見に停滞する。「身に覚えのない」妊娠に被曝する「O侯爵夫人」(Kleist)のように、「身に覚えのない」無意識的なものに被曝している精神分析の呼吸が催眠状態でうわさのように漂うからである。  この世のものは神の(問としての夢の)媒体であり、そのことが「身に覚えのない」秘密である限りでこの世のものは発見されるのであるが、神は、何かこの世のものであるために打ち消されて場所となって潜伏する問としての夢と、何かこの世のものが場所を占めて浮かび上がる解としての夢との間に振動して、問としての夢と解としての夢が解離し切らない限りで、神は曖昧に流通する。このような半具体は、問なのか解なのかの解釈と決断を節約してくれるからである。それは言葉や貨幣が、問われている意味や価値が個なのか種なのかの解釈と決断を節約する限りで曖昧に流通するようなものである。それは半具体である限りで(不完全に)発見され、うわさのように漂う。信仰やトラストは、暗示にかかった催眠状態なのである。精神分析のアメリカでの普及は、「無意識的なもの」が信仰とトラストの間に漂う領域を(不完全に)見つけているのである。

0 Comments:

Post a Comment

<< Home