Monday, July 04, 2016

碧空800 「身に覚えのない」懐胎、「身に覚えのない」懐疑

800 「身に覚えのない」懐胎、「身に覚えのない」懐疑  Tolstoi と同じようにしてFreud も、「無意識的なものに」ただ一人で近づくといったふうだ。しかし、その発見や経験が発見や経験したことにならない半具体を扱うことは、文学である。  Freud の明晰性ほど胡乱なものはない。というのも、Freud の「無意識的なもの」の隠れ処として反対命題が打ち消されて潜伏しなければ明晰にはならないからである。ところが、明晰であるために打ち消されたものも、Freud の「否定」を免れ得ない。Freud は暴かれなさを持ち込んでしまった、というより、蒸し返しているのである。  Tolstoi もFreud も分別の人であり、凡そ隠れなさに出てしまうことは不覚なのである。「身に覚えのない」懐胎に抵抗するのであるが、暴かれなさが取り残される。それは、もう一体分の器官や組織を孕んだ奇形嚢腫の気配が蔽いかけるのである。 真理には勇気がかかる、一歩を踏み出さない怯懦は誤謬の元凶である。ところが、真理であるには、例えば「この世のものはすべて妄想である」に、この認識を適用しようとしない怯懦と怠惰がかかる。つまり、真理は擬態なのであり、擬態が解けることは勇躍ではあっても、真理の覚醒かどうかは致命的に疑わしい。奇形嚢腫の気配は、この「身に覚えのない」懐疑が「身に覚えのない」懐胎のようにたちこめるのである。

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