Thursday, July 07, 2016

碧空802 不覚にも、何か似ている

802 不覚にも、何か似ている  Tolstoi が打ち消そうとする貴族の生態は、それが思いがけなく浮かび上がらせる虐げられた生態に実は何か似ている、という覚醒は思いがけない。つまり、半ば予期されていた秘密なのである。  どうしてこのようなな奇怪なことになるのか。それは、反対命題が、潜伏した霊的抽象の場所性の一つの姿だからである。ネフリュードフ(「復活」Tolstoi )が否定するまでもなく、潜伏した貴族の生態を虐げられた生態は占める。この世のもの(解)とこの世のものが占めるこの世(問)は何か似ているが解離するように、虐げられた生態と貴族の生態も解離しているが何か似ている。虐げられた生態を通して貴族の生態は打ち消される。すなわち、虐げられた生態は貴族の生態を映し出す媒体であって、この媒体性は、貴族の生態が虐げられた生態を包み込む空気のような媒質性に転位して、不覚にも、何か似ているのである。  「無意識的なもの」を躱そうとして不覚にもヤーウェに出てしまうFreudのように、Tolstoi は、貴族の生態を脱け出そうとして不覚にも名声に包囲される。それは、陰謀の気配の包囲の変形であるが、脅威なのか誘惑なのか見極め難い。ネフリュードフは、その、血迷ったか思い上がったか熱に浮かされたか催眠術にでもかけられたとでも揶揄されかねない猛進の躊躇を誘惑だとするが、ネフリュードフにのしかかる漠とした「いやな感じ」の正体は、この猛進のスピリットの低徊、萎縮、衰弱なのではなく、虐げられた生態を通して打ち消された貴族の生態は疚しさとなって蔽いかける媒質になるのであるから、ネフリュードフの猛進が不覚にも貴族の生態から一歩も脱け出していかないこと、その極端な痙攣(硬直や蝋屈すなわち世界の終わりに出てしまっていること)なのである。  とても手放しでは歩行できないような場所を軽々と突破していく「身に覚えのない」夢遊病も、実は世界が終わってしまっているためにずっと足踏みしている症状(極端な痙攣すなわち硬直や蝋屈)なのではないか。

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