Sunday, July 24, 2016

碧空813 越境(絶景)と狼狽から

813 越境(絶景)と狼狽から  隠沼もそうであるが、「貴婦人と一角獣」の潜む国境のライ麦畑のように不完全に起こる出来事としての絶景は救出を待つ症状と透視の間に振動、変態して、ロシャンボーの城館を包む眺め(「ルイ・ランベール」Balzac)のように、既視感の報告がしばしば「夢で見た」になる。これは、前後が解離しない世界の終わりに出て「起こらなかったことを思い出す」二重、従って八重九重の通過(絶景)の、その二重性を、現実と夢とに大まかに領土分割したかのように曖昧に扱う。しかしそうした分割を取り消しても、絶景には戻らない。絶景は、魂(種の関心)が映し出す現実や夢(擬態)が、この二重の魂を映し出す現実や夢の頓挫(透視)にまるで連れ戻されるかのように解脱するのである。具体と具体が占める場所(魂(種の関心))とが解離する限りで現実であり、具体が占める場所が同時に具体の意味でもある限りで夢であり、こうして現実と夢は懸け離れているが何か致命的に似ていることも、この分割は見過ごす。夢のような絶景ではあっても、絶景は夢ではなく現実でもない。二重なのは魂の気配であって「今すぐに何か思い出さなければならない」というような鬱然とした焦燥は、「繰り返し戻って見たくなるような」誰もいない昼間の風呂場の馬蹄形のホース、逆に「二度と行ってはならないような」ロシャンボーの景色、また「私が行くために起こるような」野火、というふうにも分節される。絶景は、受身と自発と尊敬と可能が収斂して透視さ「れ」、「私」は絶景が出現するために間に合わされる手段でしかなく、絶景の媒質は世界の終わりである。  こうして、絶景としての越境は、Genet では「今すぐにも何かを盗まなくてはならない」のであり、Tolstoi では「今すぐにも何かを返さなくてはならない」のであり、Balzacでは「二度と行ってはならない」のであり、鶴見俊輔では「繰り返し戻って見たくなる」のである。霊的気配は鬱然としているが、素材としての「私」が間に合わない、その狼狽からである。

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