碧空816 何か復讐的
816 何か復讐的
Tolstoi の長大な叙述のなかに、短い上唇が上がって歯が見えるとか、下唇の両端が下がったとか、弁髪のように編んだ髪の先をつかまれた範囲で頭を振るとか、右に左に顔を回すとか、緻密に走査するというより、そこに密かに取り憑いた別の生きものの活動をうっかりのぞいてしまったような、あさましがるようなおかしいようなズーム・アップが散在する。何か透明で、realというよりetherealであるが、のぞいてしまった魂の二重性の、その「見てはならない」目配せを(細部のズーム・アップが極端なスロー・モーションを羽織って強硬症になるような輪郭喪失の透視の瞬間を)目を瞑って躱せないのである。
天使がオマエハ誰ダという問いかけであるのも、のぞいてしまった輪郭喪失の超絶瞬間を目を瞑って躱し切れなく、いつまでも1にならないのはオマエノコトナンダゾと脅かしかけられるのである。というのも、個と種が解離し切らない天使の出現は、部分と全体が解離し切らない「LITTLE NURSE」の強硬症のように解離して中間突破することの頓挫、歴史的に救出を待つ症状であり、見つけられたがっているが、鏡には映らないのである。「起こらなかったことを思い出す」ように透明な天使は極端に私的であるが、それは、夢のように極端に私的であるということではなく、問と解との区別がおかされて(不完全に)起こっているからである。
夢が極端に私的であるのは、夢が占める場所が意味と解離しないで、意味が暴れるからである。懸け離れているが何か似ている現実と夢の差異は、その場所と意味とが解離するか解離しないか、現実も夢も解としての種の夢であるが、その大気はその解が私的であることの程度に応じている。
問としての種の夢と「私」とが解離しない魂の二重性が解としての種の夢の場所と意味とが解離しない二重性に転位して、「見てはならない」目配せをのぞき穴の向こうにうっかり見てしまうことは、鶴女房の場合もそうであるが、何か郷愁が谺するだけでなく何か復讐的である。「見てはならない」のにうっかりのぞいてしまったオドラデクも、「見てはならない」目配せが見つけられたがっていることであるように影を落としている。


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