Wednesday, July 27, 2016

碧空815 「見てはならない」ポーリーヌの獰猛な影

815 「見てはならない」ポーリーヌの獰猛な影  一度も起こってはいないのに初めてではないかのように迫る世界の終わりに出てしまうことは、時間が石になるような麻痺、「私」というものがその起原に面して脅かされる強硬症、遁走しようのない隠れなさ(のぞき穴の起原)であるために、「二度と行ってはならない」、「見てはならない」というような禁止の形で世界の終わりが修飾(修正)され、目を瞑るようにのぞき穴の起原が隠されることにもなる。  Balzacのロシャンボーの城館の魅惑の源泉は、場所を占めるロシャンボーの城館ではなく、場所が宙に浮いてしまうことで、それは魂の二重性(のぞき穴の起原)に被曝することである。それは、ロシャンボーの城館に二度行くことではない。このロシャンボーの城館を「夢で見た」というのは、一度も起こってはいないのに初めてではないかのように迫るロシャンボーの城館を、初めてではないようにするために、のぞき穴の能所が解離した領土の一つ(夢)へ送り込むのである。  鶴女房の場合のように、魂の二重性が具体の次元に転位して(のぞき穴の能所が解離して)女房が異類の影を落とすように魂の二重性が変態するのであれば、「見てはならない」のはのぞき穴の起原から、のぞき穴の向こうに移る。月光を浴びてポーリーヌの棲むヴィルノワの館の小塔も「夢で見た」のである。しかもそれは「見てはならない」。ポーリーヌが(不完全に)起こっているのは、附属肢の変形である翼の影を(二対三対と口元に集まって強靭な顎にも変形する獰猛な天使の影を)落としているからである。ポーリーヌの出現は、オマエハ誰ダという問いかけ、ナルキッソス的なものである。  ルイ・ランベールの肉体がすっかり干からびてしまうのは、ルイ・ランベールがそれをエーテル体と思うのであれ何であれルイ・ランベールを通して空蝉になるまで吸いとられたのであり、ポーリーヌが鏡の前を笑うように過っても、部屋しか映らない。  ヴィルノワの廃墟は、ポーリーヌが誰と入れ替わったのか分からないことを息洩らしている。つまり、それは、見つけられたがっていて、そのためにポーリーヌは本質を扱うのである。

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