Friday, August 26, 2016

碧空835 いつまでも1にならない原因や罪

835 いつまでも1にならない原因や罪  処刑の順番を目前にして待機しているピエールは、ボロジノ戦野でアンドレイの身体を冒して顕れたために度忘れしている「見てはならない」影、「隠れない(逃げ場がない)のに、誰も見ていない」恐慌を媒質として立ち竦むが、この出来事は縁生するためにどの出来事と入れ替わっているのだろうか。地上の諸連関のなかで弾む偶然の出来事は「見てはならない」影を落としていて何か零落じみているが、その影が出来事の意味、いつまでも1にならない原因や罪なのである。  何のためにという問に冒されなくなることは、この世が自明になることである。「野火」(大岡昇平)は私が行く「ために」立ち昇るように、神がいる「ために」私は生きる。この、原因と目的が解離しない「ために」を、「誰も見ていないのに、隠れない」/「隠れない(逃げ場が)ないのに、誰も見ていない」は分節している。「無数の微分的な力」(Tolstoi )の諸連関のためにではなく、いつまでも1にならないために究極の隣人の、その捕食は獰猛、酷薄になる。それは自明に(自由よりも自由に)なるが、そのために、微分的な底曳き網の根こそぎの走査がいかに長大になっても捕捉できない。  究極の隣人の落とす「見てはならない」影は押し入って来る死の姿をしていて、それは、心臓の音の薄気味悪く迫る気配である。復活の落とす影が復活の頓挫であるように、心臓の音の落とす影は心臓の沈黙なのである。  問としての魂は解としての「私」になる限りで復活する。従ってそれは、復活の頓挫である。引き換えに日常という贅沢を「私」は身につけるが、この贅沢が落とす「見てはならない」影が(例えば他の誰かの身体に顕れた刺青が呼び覚ます)取り返しのつかなさである。こうした日常からの覚醒は、何か一貫して不易な「私」というものが解けるのであって、それは死とは何か違う。というより、死とは懸け離れているが何か似ている。日常は、この世のもの(解)とこの世(問)が解離すること、中間突破して過ぎる贅沢で、どんなに私的でも公共の(標準の)時間であるが、アキレスが亀を追い抜けないことは公共の事件でも事故でもない、救出を待つ症状である。  物語からの不思議な生還は、この、極端に私的な(心臓の音を探す)症状の転移、いつまでも1になれないで連れ戻されるのである。

0 Comments:

Post a Comment

<< Home