Saturday, August 27, 2016

碧空836 死を装って神が現れること、その断面

836 死を装って神が現れること、その断面  死ぬ「ために」生きる、ということは、死体になることに向かって生きる、というような過程(種々の不規則な運動や傾向が平均化された落下)なのではなく、「起こらなかったことを思い出す」というような何か透明な懐疑、原因と目的と手段が解離しないおどろきである。死を装って神は現れる、それが生である。同じようにして、種の運命は偶然を装って(即興的に)個体に現れる。個体となって映し出されるのである。個体差は平均化されて法則があるかのように、また極度の偏差(典型あるいは奇形、あるいは平凡)が写真のように架空の全体を代表する。こうした三重の代表の振動が、漠として歴史である。  歴史というものがどのようにして姿を現わすかを走査するTolstoi と、神的Erosがどのようにして姿を現わすかを走査するTolstoi の間には裂目がある。微分の極では、暴かれなさは隠れなさに変態するからである。神話は、起原や衝動と傾向の(問としての種の夢の)分類の、問と解の対位法的な試みであるが、ホメロスのような話法にならないようにすることは歴史的ではあるにしても歴史的であることは贅沢(虚構)であるかに見える。しかし擬態を鎧うのは慢性的に追い詰められているからだ。そしていつも、狩り立てられた断崖で、暴かれなさと隠れなさの間の振動が起こるのである。この変態の韜晦性の反対命題は日常的平明性である。こむづかしい戦争もナメクジのような平和もこの平明性の程度の差に過ぎないが、「戦争と平和」は知らぬ間に落としている「見てはならない影」をホメロスとは別の対位法で(すなわち再発的に)叙述しないではいられない。  この、再発とは、何か。死を装って神が現れることの、その断面である。この死は擬似摂理の出現であり、この物語からの不思議な生還は復讐的で、そもそも物語ることは復讐なのである。それが、神を映し出す死を神が映し出す「目には目を」式の再発である。この断面は、いつまでも1にならない届かなさであり、技術的決断として「戦争と平和」を、俘虜の群から救い出されたピエールが入っていったマリアの部屋でマリアのそばに腰掛けている黒い喪服のか細い人影をクレッシェンドのようにズーム・アップしていくとそれが劇的にナターシャになる、まるで思いがけない(従って)むさぼるように予期されていた場面で断ち切って余韻を長く曳くように終わらせようと、蜿蜒とエピローグを引っ張って余韻を希釈してしまおうとも、復讐の届かなさ(エコー)に変わりはない。  「緋色の研究」(Doyle )は、神秘がミステリにも復讐譚にも零落することの標本である。「戦争と平和」では「オデッセイアー」のように神秘が復讐譚に零落し、長大な、というより強迫的なエピローグが尾を曳いている。このエピローグは奇形嚢腫ができてしまったようなもので、「戦争と平和」もう一体分の組織や器官の残骸なのである。この残骸は「見てはならない影」であり、いつまでも1にならない反省的なもの(暴かれなさ)は希望の症状にも見えるが、物語からの不思議な生還(隠れなさ)から脱け出せないのである。このエピローグは、「戦争と平和」がいつの間にか復讐譚であることに狼狽して顔を赤らめているかのようだ。

0 Comments:

Post a Comment

<< Home