Friday, September 02, 2016

碧空840 模写するかのように告白する

840 模写するかのように告白する  精神分析の扱う症状は、人面瘡の告白のようでも他の誰かの舌を通した告白のようでもあり、腹話術としての精神分析は怪談でもミステリでもある。  「私」というものを代表する自由の特徴は自明であるということ、それと知らず献身状態であるということである。「私」というものが「見てはならない」影は、この、極端に価値を高めもすれば卑しめもする献身状態(生贄であること)である。この影を見てしまう窃視は、何か復讐的(1=0.9recursionのような奇妙な感じ)であるが、それは献身状態に被曝するのである。  のぞき穴の向こうで鶴女房の影落とす献身状態は、外在化した人面瘡であるには清楚過ぎ、オマエノコトナンダゾと恐喝するようでもなく、つまり、怪談にもミステリにもなれずに何か復讐的に楚々として迫るのである。  映画をどのように終わるか、次第に遠去って消失点に没するようになおも世界は続く、といった終わり方にはなれない場合の、その解決がストップ・モーションであるとして、それは、世界は終わっているのに歩き続けているということである。「忠臣蔵外伝 四谷怪談」(深作欣二)がそうである。それは、伊右衛門とお岩が歩き続けているのに世界は終わっているために止まっている、かに見えるように終わる。一方、赤穂浪士は消失点に向かって跫音を次第に高めて遠去る。  外在化した伊右衛門の人面瘡であるお岩も伊右衛門も物語から生還して物語る目になってしまうために、怪談であることは解除されてしまうが、物語る目が神々の姿に身を窶して物語のなかに乗り込む神話的な対位法の試みは、狐憑きじみた化粧法や装束に転位してなおも落ち武者のように草潜きしぬぐ息衝き余る。  消失点に向かって跫音を次第に高めて遠去る赤穂浪士には伊右衛門やお岩は見えないが、伊右衛門が掻き鳴らす琵琶の音は聞こえる。それは、伊右衛門やお岩が、消失点に向かって跫音を次第に高めて遠去る赤穂浪士には見えてはならない影(献身状態)というより、致命的に気配づいていて、この献身状態を、消失点に向かって跫音を次第に高めて遠去ることが模写するかのように告白しているのである。

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