Saturday, September 17, 2016

碧空850 「AHHA KAPEHИHA」のエピローグ、「AHHA KAPEHИHA」の胎動

850 「AHHA KAPEHИHA」のエピローグ、「AHHA KAPEHИHA」の胎動  「AHHA KAPEHИHA」(Tolstoi )をどのようにしてAHHA KAPEHИHAが代表し得るのか。  その第八篇はエピローグであるが、アンナの嫉妬発作がリョーヴィンの身に覚えのない懐疑に吹き替えられている。アンナの「私」というものの危機は、鉄の塊と鉄の塊の精が醜悪な老人に身を窶してフランス語の単語をぶつぶつ呪文のように呟くように薄気味悪く迫るのであるが、この「鉄の塊」は、あの(「誰かがいる」というような)薄気味悪く迫る存在と含蓄の気配が姦通性や隣人性に転写される変換装置であるだけでなく、媒質変化を変奏して吹き替える。嫉妬発作は陰謀の気配や寂漠に吹き替えられ、轢死したアンナの個が解けて自由よりも自由にAHHA KAPEHИHAが物語から生還する限りでAHHA KAPEHИHAは物語としての「AHHA KAPEHИHA」を代表するのである。つまり、そのエピローグは、物語る目が漠としてどこか再発していて、沈黙に向かうのではなく「AHHA KAPEHИHA」の始まり、その胎動なのである。  誰と入れ替わっているのか分からない隣人性は身に覚えのない懐疑であるが、リョーヴィンを襲う懐疑が身に覚えのない懐疑であることはリョーヴィンの輪郭を脅かす。しかし、この、身に覚えのない懐疑は、赤ん坊の「誰かがいるはずだ」という身に覚えのない予期に吹き替えられる。さらにまた、赤ん坊の太陽のような微笑は、この、誰と入れ替わっているのか分からない裂目を模写するのであり、隣人性が「鉄の塊」を通して姦通性に変換されても、運命の人というものは厳密なようで致命的にゆるんでいて不正であるために、その、責めと責め苦が解離しない裂目に面してアンナは顔の周りをまわるような微笑を以て模写し、あるいは目を細めてピンぼけを直そうとして(のぞき穴になって)媒質変化が嫉妬発作に吹き替えられてしまうのである。  エピローグというものが落莫として何か奇妙な感じがするのは、まるで光速の自乗を超え、空間は時間との区別をおかされて意味にスリップするからである。陰謀の気配、寂漠、嫉妬発作、この、媒質変化の三相の除外は、自由が解けること、孤独が解けること、思考が解けることに対応していて、この輪郭喪失は劇的に掻き乱されているが(のぞき穴になって)何か無心なのである。

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