Sunday, October 23, 2016

碧空874 自然、夢、「伽藍」

874 自然、夢、「伽藍」  一体、技術とは、恒常的にすることである。平均化と提喩による法則的、歴史的制圧としての日常性は大きな技術革新であり、具体として顕れる自然もこの技術革新の流域であり、自然が占める(ように潜伏した)場所が氾濫しないように自然が実は媒体であることが秘密である限りで、自然と、疚しさや予期と区別のつかない記憶喪失(場所)とが何か対応していることを発作的に思い出そうとしているかのように、言葉や貨幣といった媒体と一対一で対応しようと足掻くのである。つまり、unlearn の二重性は、すなわち霊的に抽象、圧縮された記憶が具体となって解ける化と、場所となって忘れる疚しさとの二重性は、解離する(秘密のままに驚かない)。  夢は、その霊的抽象の展開と記憶喪失とが解離しない場所の氾濫、その大気は疚しさが眠りから驚いてしまうようであるが、その恒常的な形式は、圧縮された一瞬の神経経路がまるで長い経過であるかのように展開する技術である。危機に面して物語る擬死発作も、この一瞬の神経経路を分節する。一瞬の光景に圧縮された全貌をまるで経過を追跡するかのように見せかける技術なのである。クェンティンの「伽藍」は、スイカズラの匂いやコオロギの増殖や屋根を透して覗き見する雨の音や女の腰に満ちて来る月のような拡散、経過の追跡、その全容を、「壁に架かった鏡の中に(次元減衰して)花嫁衣装の妹キャディがドアのところに立っている」というような、一瞬の「響きと怒り」に皺を畳み込んで圧縮すると同時に解凍、展開する装置である。  サトペン大佐とコールドフィールド姉妹(「Absalom Absalom」W.Faulkner)に一体何が起こったのか。久遠の(従って無量の責め苦としての)黒衣の妹ミス・コールドフィールドの舌と声帯を通した如何わしい告白と如何わしい伝聞へとクェンティンは呼び出される。孫悟空の接近に感応して如意棒の原石が光り出すように、「火熨斗」が目覚める。それはなんとも唐突、奇矯であるが、霊的抽象としての一瞬の神経経路「Absalom Absalom」が解凍、成就するための、さらには、告白と伝聞の区別がおかされてうわさのように漂う「再登場」を(その、もの凄い速度と出没の妙を)恒常的にするための、解離の技術を暗示している。

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