Tuesday, October 25, 2016

碧空875 「再登場」の衝撃1

875 「再登場」の衝撃1  美術の奮闘にも拘わらず美が恒常的にはならないように、うわさのように漂う「再登場」の目配せじみたもの凄い速度と出没の妙も恒常的にはならない。そうした覚醒(apparition-like suddenness)は、この世のものとこの世が解離する場所の潜伏ではなく、解離しない場所の氾濫だからである。  氾濫1は、何モ変ワッテイナイノニ取リ替エラレテシマッテイルといったふうに裂目を見ひらき、氾濫2は、誰ト入レ替ワッタノカ分カラナイといったふうに裂目が驚くのであるが、Messiah の微行を真似したBalzacやFaulknerの再登場の手法が恒常的であるとすれば、それは、場所の氾濫ではない。美術館が美を保存しないように、BalzacやFaulknerの小説も「再登場」を保存しない。  Dracula が鏡を前にして一瞬部屋が映ってしまうように、クェンティンが壁に架かった鏡を前にして一瞬花嫁衣装の妹キャディが映ってしまう。それは見てはならない影であり、Dracula と一瞬の部屋が懸け離れているが似ているように、クェンティンと一瞬の花嫁キャディも懸け離れているが似ていて、この、おぞましい輪郭喪失(その二重性、欠如、過剰)は、一瞬部屋が砕け散ってしまう衝撃が「響きと怒り」の励起であるように、一瞬花嫁がスイカズラの匂いとなって次元減衰から脱け出す拡散も「響きと怒り」の励起である。  この鏡の中に次元減衰した部屋がDracula を代表するとも知らずにDracula が魅惑されるように、鏡の中に次元減衰した花嫁がクェンティンを代表するとも知らずにクェンティンが魅惑される、その、輪郭喪失の魅惑は、ナルキッソス的なものである。つまり、「再登場」の衝撃は、告白と伝聞の区別、のぞき穴の能所の区別、受身と自発と尊敬と可能の区別がおかされたエコーなのである。

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