Sunday, February 19, 2017

碧空953 「思いがけない景色に、和蘭陀へ流される」

953 「思いがけない景色に、和蘭陀へ流される」  「幽霊を見つけたのに自分を探しているようではない」というような不思議なかなしみは、「思いがけない景色に、和蘭陀へ流される」というようでもある。  こうした蜃気(あるいは淵)は、言葉が孕む関心の次元にも越して来る。系統発生的な関心と個体発生的に関心を惹くものとの関係(媒体性)が、一般化された問と個別化された解との関係(媒体性)に転移するのであるが、不思議なかなしみが転調するというのではない。例えば「重瞳」にしても、「畳の目にこぼれた針は地獄の山の草となって生える」や「行方知れずになった蜥蜴の尻尾は茶釜に入って祟る」にしても、「イシミツ」にしても、それはまるで自生しているかのようで、しかもそれがコンナトコロニというように覚醒するために誰かが接近して来る跫音をまるで待ち侘びていたかのようで、しかも誰のためにそうなのかまるで分からない。

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