Monday, July 17, 2017

碧空1051 冤罪と贖罪の間

1051 冤罪と贖罪の間  他の誰かとなって想起する(ぞっとするような)献身も、他の誰かとなって話す言葉も、奇怪な半ばこの世のものの現象(metamorphosis )であるが、懸け離れている。取り返しのつかなさを埋め合わせる贖罪性に包まれているかに見えても、それは、取り返しのつかなさが埋め合わせる冤罪性に被曝していることを脱け出すというのではなく、「他の誰かとなって話す献身」というように献身と言葉の間が決壊して二重に半具体が迫るのである。  「行方知れずになった蜥蜴の尻尾は茶釜にはいって祟る」「畳の目にこぼれた針は地獄の山の草となって生える」(「草迷宮」泉鏡花)これは、憤る如く冤罪性に被曝しているのであり、「無意識」の猛威に曝されているように見えるとすれば、それは全背景(心)が前景の振りをして隠れないからである。しかも「他の誰かとなって話す献身」の、その二重に迫る半具体の秘密の二つの解なのである。  言葉は極端に私的であることの取り返しのつかなさを一般化する(他の誰かとなって話す)ことで埋め合わせしようとする意に反して秘蔵してしまい、贖罪的であることは空振り、すなわち取り返しのつかないままなのであるが、他の誰かとなって想起する献身の(ぞっとするような)取り返しのつかなさはそのまま奇妙にも何か(胸打チ震ワセルヨウニ)埋め合わせる。こうして「他の誰かとなって話す献身」は冤罪性と贖罪性の半陰陽なのである。これは、半陰陽の命令の一つの解(症状)が、もう一つの別の症状になって話す転移(metamorphosis )に見えてしまう。  「茶釜に入って祟る」、「地獄の山の草となって生える」ということは、この世のものになるために打ち消されたものは消滅するのではなく疚しさや場所、種の夢や究極の善に脱皮する振りをして潜伏するのであり、しかも、潜伏の気配を消して安らうことと潜伏の気配を消せない疚しさとの間も決壊する、そうした次元跳躍に迫るのである。

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