Thursday, April 19, 2018

碧空1235 MOON WALK153(盗まれた罪)

1235 MOON WALK153(盗まれた罪)  Sherlock Holmes の演繹が喝采を博するのは、ヴィクトリア朝期に限らず、この世に支配的なレトリックが、隠れていたものが顕れる効果だからである。それは、或る夢の潜在内容が同時にその形式であるような「夢判断」や、種を前触れるように映し出す個を身を潜める種が現し出すようにして出現する主体(個と種の関係)が、部分と全体の関係に転写されて客体に仮装するような「種の起原」の(Sherlock Holmes が忽然と変装を解いて一気に躍り出るような)説得術でもある。  犯人がSherlock Holmes となって想起する献身(媒体性)は教師と弟子の間が解離しないのであるが、Sherlock Holmes が犯人の身になって推理する器官の延長(媒体性)は教師と弟子の間が解離する。この、教師と弟子の間の解離は、「何も身に覚えがないのに追われている!」のではなく、まるで犯人に罪を盗まれるのである。というのも、「何も身に覚えがないのに追われている!」は、伝達や時制の揮発にして爆発的に現在が広がるように罪が焦燥や憂愁となって覆いかける隠れなさであるが、教師と弟子の間の解離は、罪の時制が世界の始まりの暴かれなさまで遠心分離して、盗まれたかのように、本当の持ち主を探すように、罪は人から人へ疫病の如く人の姿をして伝染するのである。  そのようにして、「唇の捩れた男」でも「ボヘミアの醜聞」でも、Sherlock Holmes がいきなり変装を解く翻弄の如く暴露した唇の捩れた男の正体も、Holmesをも欺いた男装を解いて夜会服を着た単身像のキャビネ判写真となって正体を現わしたアイリーン・アドラーも、罪の本当の持ち主はこれから探さなければならないというように、主体が客体に仮装する「罪の起原」の説得術なのである。

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