碧空1380 MOON WALK298(はちきれそうになって宙に浮かぶヨハネの生首)
1380 MOON WALK298(はちきれそうになって宙に浮かぶヨハネの生首)
種を追求するのは個の振りをする種であるから、この追求は、運命の人を見初めることや救い主を見分けることのように逆せ上がるgoose-chase である。
個は種の、外面は内面のしるし(信)であり、症状であり、解であるから、その具体性は途中までしか来ない中間性であることが、その半現実が暴らさまになることが、個が現実になる「ために」後れて来る主体の、その虚構の不安である。
「野火」(大岡昇平)が現実になる「ために」後れて来る主体は、後れて来る「ために」野火が上がるように運命づけられている。同じようにして、後れて来るのはヨハネであって、救い主が現実になる「ために」ヨハネが後れて来るのは(先立つはずの)ヨハネが後れて来る「ために」救い主が見分けられるのである。こうした半現実が不安なのは、目的と原因が解離しようとして解離しない時間の崩壊である。
千変万化の魔法使いの不安は種の種の浮上に面して足を掻くのであるが、長靴を穿いた猫が逆せ上がってしまう不条理(absurdity )は、種が個の振りをする以上に種の種の浮上を孕んではちきれそうなのである。それはヨハネのことでもある。ヨハネの生首はヨハネのしるしであるから、三重にはちきれそうになって宙に浮かぶのである。


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