碧空1560 phantom circuit68(生首へ駆り立てられる)
1560 phantom circuit68(生首へ駆り立てられる)
解と問が解離しない、問を映し出す解の場所となって問が潜伏しないで、従って後れて来るはずの主体が途中までしかやって来ない狼狽から、転移発作的に、傍視する。それが解と問の解離であるが、傍視する方角に何かがあるのではない。
問が解となって姿を現わすために姿を晦ますことになる疾に面して、後れて来る主体が傍視するのではなく、後れて来る主体なら傍視するかのように媒体性が眠り込むのである。
精神が姿を現わすために精神が姿を晦ますことになる疾の症状としての偽、この精神と偽の位置に、良心と悪、種と個、運命と偶然、無意識と症状を代入すると、疾の症状の変脱が、無意識が姿を現わすために無意識が姿を晦ますことになる疾の症状としての症状に及ぶが、無意識を打ち消す症状は症状が打ち消す無意識になる。自食は、打ち消すものになるのである。
自食の冒険は、打ち消すものになるmetamorphosis である。生首が擬似半陰陽の暗喩であるのは、生首は「私」を打ち消すものになること、予定調和的な全体が部分の振りをする自食だからである。こうして、「Notre-Dame-de-Fleurs」(Jean Genet)の、その華とは、生首へ駆り立てられているのである。


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