碧空1637 phantom circuit145(鏡像であることを隠す擬態)
1637 phantom circuit145(鏡像であることを隠す擬態)
世界の広がり(雌雄異体の気配と同時に種と個の解離)である日常と「世界の終わり」が出会うところ、それが不思議な黄昏の、その無我である。柳田国男が「自然の前の無我」と呼んだ、というよりは呼び出そうとしたものは、半種個の「天空の」範疇にして、この「無我」は目眩であるから、宙に浮くが自在ではない初恋のように、個が終わるところで極端に個になって光る焦燥である。
柳田国男が呼び出そうとしている、どん底の炭焼きが、夕陽があかあかと射し込んだ小屋の入口で、頭を丸太に乗せた小さな二人の子供が(まるで腹話術のように)この鉞で首を落としてくれというのにふらふらっとして首を斬り落としてしまう、その、宙に浮くが自在ではない「無我」とは、後れて来るはずの悔いが途中までしかやって来ないのである。
ジュリエットが極めたい境地は、蛆も同然の偶然の個に獅噛みつくジュスティーヌの首を落とすことであるが、ジュリエットの淫蕩と嗜虐の悪徳の症状はジュスティーヌの苦行の奇妙な鏡像であることを隠す擬態であって、淫靡と残忍で羽飾りした交尾や千鳥の最中に不覚にも宙に浮いて顔が戻らなくなるのではない。
つまり、ジュリエットの「悪徳の栄え」はジュスティーヌの生首が出そうな場所であるが、鏡像とは、実在するように(従って実在するかのように)まじなう呪術であるから、この、目的と比喩の区別がおかされた呪術性を隠す秘密となって底知れぬ命令が系統発生的に変脱するのをまるで減速撮影した効果のようにして、「悪徳の栄え」は気味悪いともふざけきっているともお伽噺じみているともつかないのである。


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