碧空1653 phantom circuit161(片隅の世界の終わり)
1653 phantom circuit161(片隅の世界の終わり)
別の惑星に瞬間移動するとは、宙に浮かぶのである。「私」が終わるところで極端に私的になる生首は、G.Moreauのヨハネの生首のように宙に浮かんで場所を占めないものなのである。その、この世ならぬものの忽然とした出現(apparition-like suddenness)は世界が広がっているということではないから、雌雄異体の気配は打ち消されている。光も闇も止む。
ダブリンの交易風景が宙に浮かぶのであれば(コレガDublinノ交易風景ナノカ!)、その、片隅の世界の終わり(apparition-like suddenness)は鬱然としている。無我に「私」の危機が応答する憧憬は、光も闇も鬱勃と止むのである。それは、遠くして近い長目の効果(眺めの惚恍)のように、光速に達していながら遠近法は閉じている。ダブリンの交易風景の予定調和的な平均なのではない。
予定調和的なダブリンの交易風景の、その擬態が解けて、別の惑星に瞬間移動するダブリンの交易風景の、その憧憬(の忽光)は、種と個が解離しないEROSの、長目の効果の麻痺であるがなおも鬱然と痺れている。つまり、片隅の世界の終わりはEROSの変態の如くなのである。


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