Thursday, February 13, 2020

碧空1674 nautilus17(アブラハムが旅を共にする誰かとなって話す、沈黙)

1674 nautilus17(アブラハムが旅を共にする誰かとなって話す、沈黙)  アブラハムのイサクを差し出す驢馬との旅も、誰にも話してはならないはずであるが、果たして話してしまったのは誰なのか。  S.Kierkegaard は、この旅程を何度ものぞきに戻らないではいない。「禁止と誘惑の図式」のイラストである釘づけの磔刑図が分割して父殺しの図と子殺しの図とが出現するような、俗世の(後れて来る主体の)解離の技術を不随意ながら振るうためではない。後れて来るはずの主体が途中までしかやって来ないこの世ならぬものの忽然とした出現の、その目じるしとしての媒体と、この世のものとなって底知れぬ命令が姿を現わすと同時に姿を晦ます媒体との区別が、目を凝らしてもつきにくいからである。  目じるしとしての生贄とこの世のものとしての生贄の二重性が暗示するのは、この世のものとしてでもなく目じるしとしてでもない蜃気楼のような生贄である。それはイサクに顕われたかのようなのでアブラハムは度忘れしていられる、というように突然の蜃気楼(apparition-like suddenness)なのである。  これは、誰にも話してはならないというより、誰にも話せない、話したことにならない沈黙である。誰かに話してしまったとしても、それは、アブラハムが「その誰か」になって話す不随意の腹話術なのである。

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