Sunday, May 24, 2020

碧空1748 nautilus91(暗黒舞踏は終わらない)

1748 nautilus91(暗黒舞踏は終わらない)  伝達の異化であるアウグスチヌスの「懴悔録」のような告白から表現が始まる。魔法がかかるのであるが、この、形式を与えることは模写(抽象)と瓜二つなのである。というのも、具体となってこの世のものになること、霊的でなくなることは、その、抽象(記憶)を忘れないように忘れることだからである。  解離する表現と伝達は、その、葛藤の分割の先で葛藤が再発する。知らぬ間に、まるで系統発生であるかのように運命、種(EROS)、良心、精神、無意識、と変脱する底知れぬ命令が霊的でなくなって、知らぬ間に瓜二つの偶然、個、悪、偽、症状、と変脱するこの世のものになることは、伝達が表現に変脱する亡命である。  こうした亡命は、Elpis と瓜二つである。自然は祖師となって、祖師は弟子となって知るのである。主語と述語の関係も主題と本文の関係も問と解の関係で、述語や本文が主語や主題を異化するのは、それが表現であって自由の実験だからであるが、自由落下の実験と瓜二つなのである。というのも、それは知らぬ間に伝達に亡命して、「自由、孤独、思考」が「狐憑き、類、生首」に変脱するからである。  例えば赤穂の47人の義士の、その忠義振りは誰かになる自由の実験であるはずなのに、知らぬ間に誰でもない誰かになる自由落下の実験に変脱していて、のぞき穴の後れて来る主体がのぞき込めば、その光景は、堺事件の下級武士が居並んで割腹する献身のように「異常心理」に見えてしまう。忠義の精神の、この、霊的でなくなる表現は(忘れないように忘れる)亡霊に見えてしまう。解が47も出るからなのか、この、忘れないように忘れる偽をどうして許せてしまうのか。  ところがヨハンが、誰かになる輪郭を揉み消すように、しかも輪郭を励起するように、冷静にしかも遠吠えるように足跡を消して回る暗黒舞踏は、この亡命を許せないかのようなのだ。しかもそれは、まるで本当の名を、「私」の本当の持ち主を知りたがっているというふうなのだ。こうして、ヨハンは、飄然と失踪する。暗黒舞踏は終わらない。(「nautilus79~90」)

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