碧空1758 nautilus101(極端に私的な異象なのに、ぞっとするように隠れない)
1758 nautilus101(極端に私的な異象なのに、ぞっとするように隠れない)
I am the life and the resurrection. これは、「私」が初めてであるかのように始まる亡命の、その、霊的でなくなる移住の先で、「私」が孕む(解離しない)問と解、あるいは種(EROS)と個、あるいは良心と悪、あるいは精神と偽、あるいは無意識と症状が、lifeとresurrectionとなって解離しているのである。
ヤーウェの道はlife、そしてヤーウェの一つの解、一つの即興的表現としてのJesus Christの道はresurrectionというように、この主語と述語の関係は、後れて来るはずなのに途中までしかやって来ない「私」の(反直観的な)媒体性と、その命令「の」伝達が忘れないように忘れる亡命となって再発する反直観的な異象との関係である。
一体、後れて来る「私」が遠近法に包まれるのは、底知れぬ命令「の」伝達が場所や目的となって潜伏して亡命がのぞき穴に包まれるように「私」が後れて来るのである。何も変わっていないのにとり替えられてしまっている異象は、遠近法が失調する長目の効果に酷似しているが、遠くして近いというより、霊的にして霊的でない、命令と亡命の区別がおかされるのである。
子ができないアブラムとサライの焦燥、葛藤は、父アブラハムと息子イサクの焦燥、葛藤となって転生する。その一つの(偶然の、悪い、偽りの)解決としての即興的表現が、催眠術にかかったように、気が触れたように、誰にも打ち明けずに黙々とモリアの地を目指して驢馬を連れ三日かけてイサクを燔祭に捧げるために旅することである。
そもそもアブラハムや!と取り消されるように呼び出されることが生贄なのであるが、その異象を忘れないように忘れる亡命が、器官をイサクに延長したモリアへの息苦しい、変に細部に富んだ三日の旅なのである。羔ハ何処ニアルヤ!といぶかるイサクの声にアブラハムは催眠術にかかったような、三日も早く来過ぎたような悪い暗示からぞっとするように覚醒する。というのも、イサクは生贄であることを免れたかのように見えて、そうではなく、何も変わっていないのにとり替えられてしまって、それは極端に私的な異象なのにぞっとするように隠れないのである。


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