碧空1773 nautilus116(その起原は、終わりのない懐疑)
1773 nautilus116(その起原は、終わりのない懐疑)
モーゼのために考案された異象のアイデアの目録には、地に杖を投げれば蛇となり、蛇の尾を把れば杖に戻るとか、懐に手を入れると癩病が生じたり、再び入れると跡形もなく消えるとか、川の水を陸にかければ血になるとかのparamorph が列挙されているが、これは、後れて来る主体がのぞき込む遠近法(問と解の解離)に包まれたこの世のものは、どれもこれも現実であるが現実の振りをしている恐れ、何かが潜んでいる恐れがあるとする懐疑の思潮を予言している。
奇妙ニモ、疑わしさに面して、狼狽から、その、催眠術にかけられたような眩惑的なしるしから転移発作的に隣接するものが真に迫って何モ潜ンデハイナイ!と信じてしまうのである(が、それはいつの間にか遠近法に包まれ返していて如何わしい)。1=0.9・・・ に面食らっても1とはいつまでも1にならないことではないのかとは疑わないし、この世に瞬間が入り込むやいつまでも瞬間にならないのに、瞬間の存在を疑わない。瞬間の凍結などという一枚の静止画像が劇的であるのは、瞬間を凍結してぶれていないからではなく、瞬間が極端に拡大されて過冷却状態だからである。瞬間は世界になるまでスロー・モーションに伸びてしかも一気に収縮すればこそ、その姿は不動になるまでに痙攣的で、戦慄的で、劇的な蜃気楼なのである。
こうして、痕跡に過ぎないようなかけらが全体を代表する大抜擢の、その眩暈性と、疑わしさのあまり人々に起こる転移発作とが、モーゼを励起することになるのであるが、しかも、ヤーウェの媒体であるモーゼが器官を延長して、その重い口が口舌に長けたアロンとなって予言にtwice-toldの吐息がかかることになる。
これは、手続きの発明である。奇妙ニモ、口が次々と別の口を代表する系統性が権威づけるのである。測定の手続きを重ね、変換を重ねることでまるで真に迫れるとでもいうように器官をどこまでも延長しないではいない(twice-toldの吐息のかかった)発見の態度も、その起原は、終わりのない懐疑である。


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