碧空1793 nautilus136(秘密じみて偽りの如き偶然のモリア)
1793 nautilus136(秘密じみて偽りの如き偶然のモリア)
集会の幕屋に迫る雲の柱は、贖罪の場所の聖別であるが、オドラデクは贖罪の物語を聖別する。
ノアやアブラハムやヤコブやモーゼら族長の懸念は、子孫が生命を贖ったことになるのだろうかという心配である。アブラハムの、サラ99歳にして異象じみて懐胎した長子イサクを連れた燔祭の地モリアへの三日の旅の夢想の長さというものは、子孫が贖罪であることの懸念と疑念の難解な表現であるが、それは、諦めた頃に思いがけなくヤコブに後れて生まれて来たヨセフの長い失踪(エジプト抑留)の夢想に難解にスリップする。
まるで受難が贖罪であるかに見えるが、しかしそうではなく、生命「の」伝達すなわち霊的でなくなる子孫、すなわち、この世のものであること(亡命)が贖罪なのである。何事もなかったかのよう
に一気に過ぎてしまう物語のスリップは、出埃及の長い彷徨の夢想に出る。何事もなかったかのようにということと長い夢想とが区別をおかされて遠近法は恐慌であるが、オドラデクの如きmatterが迫るはずだ。それは何か、何を聖別するのか。
ヤーウェの乱暴な試み通りイサクを生贄にすることと、イサクが贖罪であることとは何かまるで違う。イサクをモリアの山で屠ることは生命を贖うことではないのである。ヤーウェの野蛮な試みの突出を黙らせて奇異に迫るのは、長い夢想の三日後に漸く姿を現わす極端に私的な細部、秘密じみて偽りの如き偶然のモリアである。どんなにそっと踏んでもいまにも崩落しそうで、アブラハムよりずっと齢をとっていそうなのに極端に寿命の短かい異象なのである。モリアは迫る。


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