碧空1873 nautilus216(「私」が魘される)
1873 nautilus216(「私」が魘される)
鈴木春信の、振り袖を翻し傘を広げて清水の舞台から宙に身を躍らせる娘は龍に騎乗するのだろうか、龍を陽の如くまとうのだろうか。
この、逆せ上がった跳躍は、丑の日丑の刻に誰にも見られないように娘が鏡をのぞき込む冒険のように跳躍なのか落下なのか、というより跳躍と落下の交差なのである。
J.J.Rousseauを包囲して迫る追跡や陰謀の気配が暗示するのは、告白する「私」に何よりも身近なのに何よりも懸け離れた媒体性であるが、告白の冒険が跳躍と落下の交差であるのは、「私」以上の存在の異常接近だからである。告白に身を委ねることは、占う少女たちが丑の日丑の刻に誰にも見られないように鏡をのぞき込むようなものなのである。
丑の日丑の刻に誰にも見られないように鏡をのぞき込むといった身を委ねる極限状況に対位するのは秘密の告解の公開であるが、それは、秘密を分け合おうとして知らず知らず聴聞僧に毒を盛るのではなく、集団中毒を惹起して韜晦するのである。
「私」以上の存在の異常接近に遠近法は崩れて、「私」は魘される。世界の終わりの異常接近の如く漠として静か過ぎて大き過ぎて、しかし深い静寂や深い孤独ではなく、範疇が麻痺して「私」は失踪する。「私」に面して他の誰かに面してしまうというように魘されるのである。


0 Comments:
Post a Comment
<< Home