Thursday, October 01, 2020

碧空1878 nautilus221(地獄の接近の暗示)

1878 nautilus221(地獄の接近の暗示)  何事もなかったかのようにまた一日が始まった、というようにミシシッピのもの凄い水は移動するが、日常の平凡な骨格の回復は見せかけで、ぐにゃりとして分業の欠如した地獄の接近を暗示していてしかも暗示だけで終わらないとでもいうのだ。  驟雨は樹蔭や軒下に忽然と諸方の人生を肘突き合わせるほど間近に呼び寄せ、山岳を隔てていることを思わせない。その不思議には、「駅馬車」も「裏窓」から住人の生活が丸見えにのぞくアパートも、とすれば高層ホテルや豪華客船も被曝するはずだ。この遠近法の崩壊や寂漠と、「驟雨」(吉行淳之介)にぐにゃりとして萌芽した嫉妬妄想はどう繋がるだろうか。  一体この寂漠は孤独とは何かまるで違って、隠れなさ(nowhere to hide )であるから、のぞき穴の能所が解離しない遠近法の崩壊、のぞき穴の後れて来る主体を代表する自由、孤独、思考が剥奪されて湖中の島の牢獄の幽囚の、被監視状態なのである。「私」というものを脅かす媒体性の変装である追跡妄想のように、思考は筒抜けであるし誰かの思考や記憶が頭を乗っ取っている。この、範疇が麻痺して現実が頑固に訂正不能になるのは、嫉妬妄想の症状でもある。  そもそも娼婦の町の女との間だというのにばかげたときめきや操守や嫉妬が、驟雨のように通り過ぎる情緒なのである。さらに、驟雨そのものが、通り雨のように緑の葉がざわざわ落ちて何かの接近を暗示する情景に変質してしまうだけでなく、日常のありふれた配置が隅々まで陰謀含みになる。ミチコに時間の先客があって40分歩いて来なければならないように奇妙な時間が仕込まれているし、手を回してその客を配置したのはこともあろうに新婦を伴って熱海に向かうのを駅で見送ったはずの古田五郎であるとか、それどころか、熱海にいるはずの古田五郎が先客その人である、というようなばかげた細部となって(しかもぐにゃりとして)迫りかねない。何事もなかったかのようにまた「私」が始まった、というような骨格は見せかけなのである。

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