碧空1889 nautilus331(霊に触れて世相に触れる)
1889 nautilus331(霊に触れて世相に触れる)
霊は出現するために隠れてしまう命令にして、零は一つになるために半分になるのではなく(まるで抵抗するような)服従であるが、一つになるために半分になる中間の露頭の、その空の感じを(すなわち、運動なのか場所なのか目的なのか区別がおかされた霊の気配を)乾燥の危機に諸方から集結、殺到するアメーバの如く一体の生きもののように歩くJesus Christは、償うようにコピーしている。
一つになるために半分になるのではない零落が忽然と落下の気配となって驚くのは、運動なのか場所なのか目的なのか区別がおかされた気配の覚醒であるが、その、剥き出しになった中間の空の感じにどう触れるかで大気は寂漠、あるいは世相なのである。
寂漠が、後れて来るはずの「私」が途中までしかやって来ないような空虚に触れて大気が感染するのだとしたら、世相は、後れて来るはずの「私」がまるでタイム・スリップしたように早く来過ぎているような空虚に触れて大気が感染するのである。
後れて来る「私」が垣間見る世俗が覚醒する如くに世相になる電撃は歩くJesus Christに出くわすようなもので、いきなり贖罪!であるが、歴史になるのはミスコピーのような擬似贖罪である。歩くJesus Christが戦慄的なのは、それが歴史的なのではなく、中間に被曝した世相に触れたのである。歩くJesus Christに触れることは、どんなに後れて来ても早く来過ぎているし、どんなに今を主張してもとっくに過ぎ去っている、というふうだ。


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