Wednesday, May 05, 2021

碧空1891 nautilus432(媒体の変脱、「私」の変脱)

1891 nautilus432(媒体の変脱、「私」の変脱)  中間を突破する(かに見える)ために、媒体が野火から「野火」へ変脱して鏡と鏡像は解離するが、「野火」に映し出された野火が、「私」が行くタメニ上がるのであれば、贖罪として罪が伝わるのである。その、偶然の疾しさは駆り立てる力であるから、鏡と鏡像が解離しない中間に入り込むのであるが、入り込むこととは何かまるで違う。  この中間の覚醒は、中間突破の不能、罪の潜伏であるはずの場所の崩壊(浮上)である。野火の目的と場所が後れて来る「私」であるのに、「私」というものの崩壊なのである。この崩壊する感じが宿世の気配である。  しかし、媒体が具体から半具体に変脱すると、「私」も具体(媒体)から半具体(媒体)に変脱して、鏡(器官の延長)になるか、鏡と鏡像の解離(一対)になるか。それは、宿世の(問としての)夢が偶然となって姿を現わすこの世のものの、その疾しさを、意味や価値や力の収斂したこの世のものとなって償うようにコピーする。従って、野火を映し出す「野火」は、二重の隠喩、二重の贖罪なのである。

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