碧空1971 nautilus522(完璧な予言あるいは寓話)
1971 nautilus522(完璧な予言あるいは寓話)
1775年6月のゲーテは、未来が、豁然と開けているというよりは、分け入り難い山岳の如く立ち塞がっている。それは、遠近法のかかった未来ではなく、自らを追い越す原始の時間である。
死後「私」はどうなるのか、といった問は、寓話的形式に過ぎない「私」というものを疑っていないし、「私」が「私」を打ち消して保存する媒体であるといった酷い矛盾を知らないし、そもそも、この二つの「私」の区別ができないし、その中間に被曝することもない。
「私」の涸渇は上り詰めて来る命令の涸渇であるが、完全な死ではない。最初の命令を記憶や習慣が保存しているからである。しかも、打ち消されてしか伝わらない命令が惰性で伝わるかに見えるのである。しかし、この、種の如く予定調和的な「私」が、種の如く蜃気楼であることに眩惑されている症状が、死後「私」はどうなるのか、といった動揺なのである。
「種の起原」は「私」の起原が伝わらないから償うようにコピーしていて、しかも「私」は寓話的形式の暗喩であるから、何か完璧な予言あるいは寓話なのである。


0 Comments:
Post a Comment
<< Home