Monday, September 06, 2021

碧空2012 nautilus563(世界の終わりまであと0秒の、その0の膨張)

2012 nautilus563(世界の終わりまであと0秒の、その0の膨張)  媒体であることから自由ではない「私」の、その矛盾がのぞいてしまう不安は、「私」が鏡をのぞき込むと「私」が映らないような衝撃である。一つになるために半分になる、自分になるために隣人になる、同一のものではなくなる、といった記憶喪失まであと0秒の、その0の膨張がのぞいてしまうのである。  鏡に映し出されるはずの「私」が、鏡像と鏡の中間から脱け出せないのであるが、鏡像と鏡の中間などというものが一体あるものだろうか。しかも、この、鏡像と鏡が解離しないでのぞいてしまう半鏡像に、このような問は座礁しないか。というのも、問は、鏡像と鏡が解離して被写体をのぞこうとするが、のぞいてしまう半鏡像は、この発見の形式にはしたがわないからである。  媒体であることから自由ではない「私」の、その矛盾がのぞいてしまう不安は、鏡像であるはずの「私」が鏡になる、というふうにのぞき穴が卍状態でのぞいてしまう、発見(の頓挫)である。つまり、被写体(解としての「私」)をのぞき込もうとして鏡となって潜伏したはずの被写体(問としての「私」)がのぞいてしまって、この剥き出しになった半鏡像は発見とは何かまるで違うのである。  「冨岳百景」(太宰治)は、冬の早暁の厠の小窓からのぞいて37番目の冨嶽を発見したのではなく、狙撃の如くのぞいてしまう冨嶽は、剥き出しになった世界の片隅が絶対速度になって異常接近する、その、世界の終わりまであと0秒の、その0の膨張である。

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