碧空2046 nautilus597(一体嫉妬とは、誰の嫉妬だろうか)
2046 nautilus597(一体嫉妬とは、誰の嫉妬だろうか)
「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」(Goethe)を初めて読んでいる、この 2021,8.31の偶然の「私」は、「恋人は二、三日の旅に出、いやな情人が帰って来る日は迫っている」という第一巻第十二章の叙述に差しかかって、「地獄から管を通される」如く既視感に襲われる。
刃物沙汰に発展するかもしれないような、選択を迫られた色事の状況のありふれた例に接するというだけでは既視感にはならない。既視感は襲うのであるから「私」は脅かされるのであるし、何か痙攣的な神託、何か霊的なものの異常接近なのである。
ヴィルヘルムは恋人の触れたものなら何もかもが光り出すというだろうが、その情人はそうではあるまい。そもそも、この、恋人の触れたものや住む街の、その隣接性を通して恋人は遠くして近い長目の効果に包まれ、異常接近に光り出している恋人がさらにうっとりする眺めになるのである。その光が、恋人の触れたものや住む街に反射する。しかし、情人は、ヴィルヘルムの器官の延長が分身する特異点であって、光が盗まれる気配なのだ。
一体嫉妬とは、誰の嫉妬だろうか。情人がヴィルヘルムの器官の延長が分身する特異点であるように、ヴィルヘルムも誰かの媒体であるから「地獄から管を通される」如く逆せ上がるのではないのか。こうした、一になるために半分になる異常接近をコピーして嫉妬と疾しさの区別がおかされている寓話が、「地獄から管を通される」如くどこからともなく偶然の「私」に異常接近する。一体疾しさとは、誰の疾しさだろうか。


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