碧空2050 nautilus601(「雨に破れかけた街角のポスター」が出す光、あるいは吐息)
2050 nautilus601(「雨に破れかけた街角のポスター」が出す光、あるいは吐息)
最初に見た!は曖昧である。見たのは最初ではないことを忘れてしまうのか、思い出そうとしているのか、というだけではない。一体何が最初なのか。見たのは雨に破れかけたソノ街角のポスターが最初なのか、コノ「私」が雨に破れかけた街角のポスターを見たのが最初なのか、雨に破れかけた街角のポスターを「私」が見たのはコレガ最初なのか。
雨に破れかけた街角のポスターがこの世に起こるためには、出来事、場所、後れて来る「私」が解離するのであるが、その擬態が疲労して解離しない(打ち消された「私」がのぞいてしまう)奇妙な覚醒を分節することは、曖昧や混乱を以て償うようにコピーしてしまうのである。
従って、最初に見た!末娘を差し出すplotの展開(「美女と野獣」)にも、最初に見た!「私」を差し出す展開(「Faust 」)にも分岐するのであるが、もう一つの展開、すなわち最初に見たコノ到達を差し出す展開は或る出来事を差し出すのであるから、それは、「父王の妃に懸想する王子」(form)の劇的表現(performance)と変形(deformation)であるヴィルヘルムの恋を偶然の生贄に差し出すようなことである(「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」)。
こうした分岐が収斂し返す奇妙な覚醒、擬態疲労が、Mephistopheles感染であるが、冒されるのは真偽の区別だけでなく、既視感と嫉妬と疾しさの区別もである。感染した「雨に破れかけた街角のポスター」が出す光、あるいは吐息は、既視感なのか嫉妬なのか疾しさなのか、「私」なのかもう一人の「私」なのか、混沌としている。


0 Comments:
Post a Comment
<< Home