碧空1569 nautilus520(紫の場合、駒子の場合)
1569 nautilus520(紫の場合、駒子の場合)
日常性は、個と種を同じと見なすcategoryが、器官として個と種が解離するように働くのである。言葉や貨幣は、そうした器官としてのcategoryの(奇怪な贖罪の)延長である。
かぐや姫の求婚者たちは、かぐや姫を尋ねて一般性を尋ね損ねてしまう。課せられた難題を解決できないのは、かぐや姫を分類できないのである。光源氏が紫を尋ねて隠沼を尋ねてしまうのは種の浮上であるが、この、あはれと呼ばれるcategoryは女性と場所を同じと見なすように「私」の危機を一般化するのである。
あはれに包まれて保護された紫の贖罪は、「雪国」(川端康成)の精、駒子のように狐面をかむって生まれ変わる変身や、そもそもこの世に生まれて来ることが罪を打ち消すまでにコピーする贖罪1や、後れて来る罪で穴の開いた甕に地獄の水を汲み入れ続ける贖罪2、とは何か違う。


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