碧空3540 nautilus1883(津軽の拙さ2)
3540 nautilus1883(津軽の拙さ2)
赤い糸を辿った、そのずっと先で、その人は今ごろ何をしているのか。「私は真暗い海に眼をやったまま、赤い帯しめての、とだけ言って口を噤んだ。海峡を渡って来る連絡船が、大きい宿屋みたいにたくさんの部屋部屋へ黄色いあかりをともして、ゆらゆらと水平線から浮かんで出た。」(太宰治「思い出」)
雌雄異体の気配が世界の広がりとなって何ヲシヨウカというような春愁の頃に、赤い糸の話に興奮するとすれば、その異性はとっくに何処かにいるはずだからであるし、それは、丑の日の丑の刻の誰もいない部屋を呑み込んだ鏡を少女がおそるおそるのぞき込んで運命の人を知ろうとするような興奮なのである。
赤い糸と、ゆらゆらと水平線から浮かんで出た連絡船とが異常接続するのは、どちらも偶然の「私」の覚醒の避け難い隠喩なのである。偶然の「私」の覚醒は「私」が疑わしくなるのであって、「私」のことが他の誰かのことになって何か届かない位置異常なのである。
赤い糸と連絡船の関係は、「東京八景」と、隠沼と寂漠を孕んだ「冨嶽百景」との関係である。その避け難い接続は、虚構の気配はしても、避け難く方解している。足の指に赤い糸が結びついているはずの、弾けはしゃぐ女学生たちが窓から顔を出して手を振る観光バスの、その方角から、他の誰かになるまで延長した目でのぞかれていると感じてポオズをとる「私」こそは、東京八景を代表するのであるし、ヒチコックの「裏窓」からアパートの部屋部屋の黄色い灯火と相見ぬ隠沼を窃視する冨嶽の、その鳥瞰の視座なのでもある。


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